ペレス・プラード : カーク・ハメットの部屋

カーク・ハメットの趣味全開のページを作ってみた。fearfestevil_title.png



1916年12月11日、キューバに生まれる。幼少の頃よりクラッシックピアノを学び、後にポピュラーに転向して地元のクラブでオルガンやピアノを演奏していた。一時はキューバで最も名の知れたグループ、ソノーラ・マタンセーラ(Sonora Matancera)でピアニストやアレンジャーとして在籍していた。 1940年代、キューバの首都ハバナで働いていた頃、当時流行していたルンバにジャズの要素を取り入れた新しいリズム「マンボ」を積極的に演奏し始める。

1948年メキシコへ移住。そこでペレス・プラード楽団を結成、大手レコード会社のRCAレコードと契約する。休暇中にメキシコに来ていたソニー・バークが、ペレス・プラード楽団の「Que rico mambo」をアメリカでシングル「Manbo Jumbo」としてリリースしヒット。このヒットにより、ペレス・プラードのアメリカ公演が組まれることとなる。1951年からのツアーは軒並み完売となり、アメリカでもRCAレコードでレコーディングを始める。

その後、代表曲となる「マンボ No.5」や「マンボ No.8」を発表すると1955年ごろにはアメリカのチャートを賑わし、「Cerezo Rosa (Cherry Pink and Apple Blossom White)」(フランスのルイス・グリエルミのカバー曲)でアメリカはおろかイギリス、ドイツでもNo.1を獲得する。1958年には自作曲「Patricia」でも全米1位を獲得、ペレス・プラード自身最も売れたシングル盤となる。

しかし、母国キューバでカストロ政府が実権を握ってからは、ペレス・プラード及び楽団のレコーディングが禁じられてしまう。そこでこれまでリリースした楽曲群のまがいものやセカンドバージョンが世に出るが、多くのファンを失望させることとなる。

1964年にメキシコに本拠地を移す。日本には1956年に初来日を果たしてから、計17回の来日公演を行っている。1989年にメキシコシティの自宅にて死去。メキシコシティで行われた葬儀は世界中からファンが押し寄せ「史上最も陽気な葬儀」と形容されるほど華々しい葬儀となったという。なお、ペレス・プラード楽団はリーダーを変え現在も活動中である。

再発盤多発等、ディスコグラフィーとしてまとめるには複雑すぎたため抜粋してご紹介。
詳しくはLinkのディスコグラフィーをまとめたページをご参照ください。

1956年(1990年)
Havana, 3 a.m.Havana, 3 a.m.
※カッコ内はCD再発年

01. La Comparsa
02. Desconfianza (Distrust)
03. La Faraona
04. Besame Mucho
05. The Freeway Mambo
06. Granada
07. Almendra (Almond)
08. Bacoa
09. El Manicero (Peanut Vendor)
10. Baia
11. Historia De Un Amor (the Story of Love)
12. Mosaico Cubano (Cuban Sketch)

Mambo No 5